寒い今夜は、湯船に浸かりながらこう思った。
「お風呂って気持ちいいものだったんだな。」
一人暮らしをしていたここ5年ほど、湯船にゆっくり浸かることなんてほぼ皆無だった。
19時に帰ってきて、早く夕飯を食べて余暇を過ごすために急いでお風呂を済ませて、家事と同時平行でスーパーのチラシの中で安かったものを反芻して脳ミソのすみっこにメモをとる。
たまに湯船に浸かることがあっても、頭の中ではずっと、爬虫類への恐怖や平日の昼食の逃避行を思い出したり、日常の行き過ぎた孤独を慰めるために静かな洋楽を流し続けたり、浴槽を洗ってから顔に化粧水をはたくのが面倒だなんてことを考え続けていた。
「いま入浴をしている」なんて行動の自覚がなく、くしゃくしゃのアルミホイルみたいなゴミ思考のままでただタスクをこなす肉塊だった。
風呂は体の掃除をするためだけの家事の一環で、できるものなら省略したいとさえ思っていた。
風呂掃除は面倒だし、光熱費が高いから低めの温度で少なめにしか湯を張らないし、湯船に浸かってる間はスマホがないと手持ち無沙汰で5分も入っていられない。
それが今日はどうだ。
コオロギの声、たまに通る車の喧騒、湯船に水滴が落ちる音。
温かい水の感覚、震える寒さを解放する蒸気、心がほっくりする湯のにおい。
次に入りたがる家族がいるから早めに出てあげなきゃいけないという焦りは確かにあるのに、気持ちよくてぼーっとしながら10分は余裕で入っていられた。
何がこんなに違うんだろう。
しなくてもいい行動や心配をしすぎて、急がなくてもいいことで急ぎすぎて、嫌いになってもいいことを嫌いになれなくて、見なくていい余白ばっかりを見つめすぎて、無駄に自分を浪費していたのだと今ならわかる。
なぜ前はわからなかったのか。
未熟だったせいか。ストレスのせいか。一人の責任感のせいか。
「風呂は命の洗濯」だと誰かが言った。
本当にそうだと思う。
ただの面倒な義務だと思っていたあのときは、ずっと自分が不潔だという感覚を、認めたくないわりにはたいそうに両腕いっぱいに抱え込んでいた気がする。それも無自覚のままで。
いまはもう権利しかない。
仕事を忘れて自由に遊ぶ権利。
家事を手伝う権利。
好きなだけ風呂に入る権利。
自分がやりたくない面倒なことを誰かがやってくれるからこそ実現する環境だ。
家族がこんなにありがたいものだとは。
生きていても悪いことばっかりじゃないんだなって思い出せてよかった。
風呂を気持ちいいと思い出せてよかった。
私の人生でもちゃんと権利があるんだってことを思い出せてよかった。